2018年10月14日

独りを慎む

しばらく投稿するのを失念して、他の仕事に没頭していたら、

入力フォームが真新しくなっていて驚きました。

むちゃくちゃ久しぶりの投稿になってしまいましたが、

今日のテーマは「慎独(独りを慎む)にしてみました。

先日、東京のある研修で、「メンタルモデル(長年培ってきた思考パターンや価値観など)は、

変えることができない」と教わりました・・・が、私は変え難きものではあれど、

変えられないものだとは思っていません。

それが証拠に、大病などで死にかけた経験がある人などは、大きく開眼されることがあり、

大逆境は、人生観まで変えてしまうことがある事例なんて枚挙に暇がないからです。

ただ、通常は変え難いものであることも、身を以て知っており、厳しいところですよね。

しかし先哲の教えは、独りを慎むこと。即ち、一つひとつの言葉や行動を正しくするという

格物致知、陽明学では事上磨錬によって、成長することができることを説かれています。

いや、これをやらなければ、ここから逃げていては、真の成長はないと理解しています。

厳しいからやらないのか?耳障りが良いことだけを言うのか?

ここが本物か否かのポイントではないでしょうか!

なぜ辛い思いをしてでも行うのかという目的が、事業を行う上で大切であると思うからです。

人を大切に思う。人を心から愛する。ここに焦点を当てた時、

どう生きるべきかの覚悟が生まれると思っています。

どの道を生きるのか?その道を生きるなら、厳しくとも正しい道を

説くべきではないでしょうか。😃
posted by アイムサプライ at 16:07| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月11日

心はそのまま理である

「心はそのまま理である」・・・伝習録下巻より引用

鳥は、生まれて初めて見る存在を親と認識するというのは、

広く知られたことですよね。

誰が教えたわけでもなく、まだ脳に何も記憶されていない状態であっても、

すべからく生物は、その生きるための本能をプログラムとして持っています。

ゲノムというべきか、遺伝子というべきかはわかりませんが、

それは私たちの心に影響を与えていることはまちがいないでしょう。

人間は、脳の記憶(すなわち勉強や経験)だけで判断、行動しているわけでは

ないですよね。そこには美意識があり、心が喜ぶことがあります。

その心のことを取り上げて、最初からそのまま理であると表現されている

ように私は考えています。

生まれた瞬間に親を認識できなければ死んでしまいます。

心で感じる喜びは、即ち生きることに直結しているのだろうと思います。

しかし注意しなければならないのは、私たちが日常感じる喜びであれなんであれ、

心と思っているものは、脳の記憶と結びついて単なる自己都合の強欲になっており、

生きるために食べるのではなく、食べるために生きてしまうことにあると思います。

これは心ではなく、自らの意念が描き出している利己的な欲望ですよね。

心は、実は足るを知っていると説かれています。ライオンやシマウマなどの動物を

つぶさに研究すればわかりますよね。人間だけが、意念で暴走しているわけです。

しかし、だからこそ人間であるとも言えます。

二宮尊徳などは、だからこそ人道を説かれていて、心に従って良く生きる方法を

教えて下さっているのだと思いますね。
posted by アイムサプライ at 09:24| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月27日

心を正すのは意を誠にすることにある

「心を正すのは意を誠にすることにある」・・・伝習録下巻より引用

陽明学では、心の本体はそもそもが誠であり、心を正す必要など、

そもそも無いということを説いています。

正すべきは、心が動いた時、すなわち意念。

この意念については、心の本体を誠とするなら、そこから外れたもの、

即ち、中庸でないものは全て、過ぎたるか及ばざるかのどちらかであるため、

本来の位置に修まるよう、意を誠にしなさいということに

なるのだと解釈しています。

しかし実際には、むしろ意念が働かない時間の方が稀であり、

私などは、ほとんど心が誠であったことがないという有様。

本当にイライラするほど成長していないです。

でもそれは、動く意念を捕まえて、正そうとすることを意識しすぎていた

からかもしれないと思うようになりました。

そうではなくて、結局は、習慣そのものを正すことに専念すれば、

少しずつ意念は正されていく気が致します。きっとこちらが早道
posted by アイムサプライ at 16:52| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月11日

廓然と大いなる公

『廓然(からり)と大いなる公』・・・伝習録下巻より引用

体を主催しているのは心である。従って、心は常に廓然として、

いささかの不正があってもならないと説かれています。

病気になる原因の最大のものは「ストレス」ですよね。

いくら運動をしても、食事に気をつけても、睡眠をとろうとしても、

心がストレスに覆われていれば、自律神経がおかしくなって、体は重くて動かし難く、

食事は美味しく喉を通らず、寝ようとしてもねなかなか眠れないので病気になる。

全ては、心が主催しているということです。

些細なことをくよくよしたり、起きてもいないことを心配して取り越し苦労をしたり、

不平不満ばかりで自ら心を重くしたりして、自分で病気を背負いこむような

生き方をしてはいけませんという教えですね。

常にカラリと晴れ晴れとした心で生き、人の悪口や不平不満、消極的な言葉など、

絶対に口にしないという強い決意を持てば、それだけで健康も運命も、

全て上手くいくようにできているのですよということだと思います。

そのためには、自分の心の状態がどうなっているのかということを、

いつも客観的にマネジメントしなければいけません。

少しでも不平不満や消極的な言葉を口にしている自分に気づいたら、

直ちにこれを修正して、晴れ晴れとした気持ちに置き換える必要があります。

これができるようになれば、心が修まるので言動が正しく修まり、必要とされ、

生かされるようになるということですね。とても大切なポイントなんですよね!
posted by アイムサプライ at 13:53| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月09日

身を修める

「身を修める」・・・伝習録下巻より引用

修身という言葉は、孔子の「大学」に見られる有名な言葉ですよね。

その身を修めるとは、陽明曰く、「耳口目鼻四肢」を、

礼に修めることだと説かれています。

所謂、五感ですよね。そこから入ってくる情報と、そこから出て行く言動を、

礼に修めることが、意を正す、意を誠にする、

即ち、心を磨く唯一の方法だと説かれているのだと理解しています。

礼に修めるとは、即ち、備わっている至善に従うということであり、

善にあらざれば聞かず、言わず、見ず、行動せずということでしょう。

私達が日常的に思っていることは、無意識のうちに言葉として発せられ、

行動されてしまうものです。

その無意識の心を磨かなければ、本当に正しいことを発することができないので、

人生が上手く行かないのだよと教えて下さっているのだと思います。

心を直接正したり、磨いたりすることができるわけではないので、

五感から入ってくるものや言葉や行動として出て行くものを意識して磨くことで、

初めて心が磨かれるのだということですね。

また、至善は中庸でなければなりませんから、過ぎたるは及ばざるが如しです。

頑なさは脆いものです。あくまで己を磨くのであって、人を強いるのではありません。

もっと食べたい、もっと飲みたい、もっと寝たい、疲れた、だるい、面倒だという

体の五感から入ってくるメッセージを断固として強い心で打ち破り、

一つひとつを礼に従い、中庸を保って正していくことが、格物致知であり、

事上磨錬だということですね。

でもそのためには、そうしたいと思う心が必要であり、目的が必要です。

だからやっぱり、心一つの置き所なのですね。
posted by アイムサプライ at 11:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月12日

学ぶだけで考えず、考えるだけで学ばない

「学ぶだけで考えない」「考えるだけで学ばない」・・・伝習録下巻より引用

これはどちらも、学問の仕方が間違っていることを説いています。

しかしこれは、本当に身につまされますね。耳が痛いです!

まず、学ぶだけで考えないのは簡単ですね。

ただ単に、知識として知りましたというレベルです。

この場合、多くのケースが忘れちゃいますね。使うこともできません。

中には博識を誇る方もいらっしゃるかもしれませんが、多くの人は忘れるでしょう。

さらに、知ったことがわかる人がいます。これは知ったことわかる人とは、

学んだことを自分なりに深く考え、理解し、人に伝えることができることです。

私の場合、多くがまだこのレベルにいると思います。

実践していることもあるのですが、いやはや耳が痛い教えです。

そして、「考えるだけで学ばない」という教えが、私に突きつけられています。

例え話の方がわかりやすいので、昨日お聞きした職人さんの例で説明しますね。

昔から職人さんは「見て習え」という教え方が主ですよね。

今時そんな教え方は古いと言われる方もいらっしゃいますが、私はそうは思いません。

なぜなら、見て習えとは、まず型を真似ろというところから入って、

実際に道具を使って練習を沢山しながら、感覚的に本質をつかむまで、

深く仮説検証をすることだからです。即ち、実践を通して深く考えているわけです。

これで初めて、「考えて学ぶ」が完成するわけですよね。

要するに学んだ生き方は、全て実際の生活習慣に落とし込んで、深く仮説検証を

しながら考えに考え、その本質を理解せよということです。それが本当の学問です。

やってないことを本の上に学ぶだけでは、それが多少わかっているレベルに到達

していたとしても、まだ本物ではないよということですね。

それが証拠に、自分を律するとか、弱い己に克つということが全然ダメです。

また背筋が伸びました。まだまだやりますよ!!
posted by アイムサプライ at 15:37| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月21日

博く文を学ぶ

「博く文を学ぶ」・・・伝習録下巻より引用

「博く文を学ぶ」という言葉自体は、論語(雍也篇)に出てくる言葉だそうです。

推測でしかありませんが、伊藤博文の博文も、

ここから採用したのではないでしょうかね。

この論語にある「博く文を学ぶ」とは、生起した事柄に即して天理を発現するように

学ぶことだとされているそうです。

常に心即理や良知を軸に、生起した事柄を文の中に学ぶことが大切である

ということでしょうか。

だとすると、同じ論語(学而篇)にある「行ってなお力に余りがあれば文を学ぶ」

というのと抵触しませんか?・・・と弟子が王陽明に問うています。

王陽明は、詩経や書経などの六経の中には、長い歳月をかけた実践が

全てに含まれているのだから、博く文を学ぶということも、また行うということを

含んだものになっているのだよと説いています。

まさしくここが大切ですよね。先人の叡智は、学術的な論理ではなく、実践の痛みを

伴った叡智だと思うのです。理屈ではないのです。

そこをどこまで汲み取れるかは、私たち読むもの自身の理解力のレベルに左右される。

心即理や良知を理解した上で文を読むのと、真理を全く学ばないままで文を読むのでは、

最初から雲泥の差だと思うのです。

言葉というのは不思議なものです。同じ言葉なのに、どのタイミングで聞くか、

誰から聞くかによって全く違った印象を受けます。

自分自身の人間力が高まれば、シンプルな言葉の中に深さを感じるでしょうし、

誠実に努力する人の言葉を聞けば、心に素直に染み入るでしょう。

しかし、低い人間力では視野が狭すぎて、誰でも知っていることを偉そうにと

思うかもしれませんし、口だけの人の話を聞けば、腹で笑っているかもしれません。

それもこれも先人の智慧の中に、すでに答えは示されていますから、

素直な心で学び、少しでも実践・継続することが大切なのではないでしょうか。

posted by アイムサプライ at 11:34| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月22日

愚夫愚婦の立場に立つ

「愚夫愚婦の立場に立つことなしには、とても人に学は講じられない」・・・伝習録下巻より

昔は、師を敬うものと教えられましたが、果たして敬っていたでしょうか?

敬えと言われて、敬うことなどできるのでしょうか?

この教えは、私のような愚人に警鐘を鳴らす、大切な言葉だと思っています。

人はまず親しむもの。最初から上下をつけて教えた話など、

本当の学びとして残るものなどないということでしょう。

親しむうちに愛の深さに触れ、心の誠に触れると、

人は自然と敬うのではないでしょうか。

そして、同じ人間として段階は違えど、共に人としての成長を志し、

心の練磨を行う中で、講学を通じて、本物の学びが生まれるということだと思います。

間違っても、知識を身につけたものが偉そうに、上からものを言っていては、

学びを説くものとして失格な上、誰の参考にもならないということですかね。

経営者や上司が従業員と関わる際も、威厳を気にして迷う人がいらっしゃいますが、

どんなに親しんだとしても、誠の愛と生き様があれば、自然と敬われるはずです。

ここを勘違いしてはいけないという教えではないでしょうかね!
posted by アイムサプライ at 15:10| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月05日

今の人は、差し迫ったことがなくても・・・

「今の人は、差し迫ったことがなくても、食事のときですら、

いつも心をはたらかせて休むことがない」・・・伝習録下巻より引用

この話は今??と思ってしまいますが、いつものように伝習録下巻に

記されていることです。

ということは、何百年も人間は変わっていないということですかね。

今は「ITによって時間が速くなった」とか、「スピード化が進んで、

時間が短くなった」などと言われますが、そんなものがない当時でさえ、

人間は忙しくしていたということのようです。

これは一体どういうことでしょうか?

ある研究者によると、忙しく感じるのは、頭の中にもやもやしたものが

蓄積され、常に何かに意識を引っ張られて、混乱しているからなのだそうです。

要するに、やると決めたことはすぐやる!やめると決めたことはすぐやめる!

そもそも即断即決をして計画に落とすだけで、頭の中はクリアになり、

時間的な余裕を感じるのだそうですよ。

不安というものは危機感とは違います。もやもやしたものが、何となく気分を

曇らせていたり、根拠のない恐れやリスクを感じて、勝手に頭の中に、

ゴミを溜め込んでいるようなものなのだそうですよ。

だから時代背景が変わっても、即断即決できない人は常に忙しい気分なのです。

それを止めるだけで、時間的なゆとりは相当大きくなるそうですよ。
posted by アイムサプライ at 15:03| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月19日

一を悟って万事に通じる

「一を悟って万事に通じる」・・・伝習録下巻より引用

「学問にも、外からの教導が必要だが、しかし、みずからによって解悟したものは、

一を悟って万事に通じるものがあり、その点でまさるものがある。

第一、みずから解悟するものでなければ、教導を十分に受け入れることができない」

と説かれている中の一節を抜き出してみました。

「古人の言葉は、どれも自己の経験をふまえたものであり、だから、その説くところは

聞くものに切実に迫り、後世にいたっても、つぶさに人の情理にかなうものである。

それを、もし自分でも経験してみなかったら、古人があれこれ苦労したところは、

とてもわかりっこない」とも説かれています。

私的に感じることも、これと同じですね。結局やってきたことは深いところで話せますが、

学んだ知識については、表面的なところでしか話せないため、心が届きません。

だから学んだことでやったことがないことについては、少しでもやってみる、

先人の型にはまってみることが肝要だと考え、挑戦していますが、

知ることとできることには大きなギャップがあり、苦しいことが多く、

継続できないでいることも沢山あります。

それでも、まずは「やる!」ことから目を背けない。逃げないことが大事だと思います。

そして実際に継続して深く探求しない限り、万事に通じる深さへは

到達できないでしょうね。

スポーツのコツも、楽器を演奏するときのコツも、力を抜いた中でのポイントを

感じることができた瞬間に、目からウロコのことがあります。

おそらくは、経営も人生も、極めようと努力したものだけがわかる深いコツが

あるのではないでしょうかね。
posted by アイムサプライ at 13:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする