「至善に止する」とは大学にある言葉であるが、この至善について弟子が訪ね、
単なる一つひとつの儀礼を正しくすることではなく、私の心がなく、
そのまま純全にして天の道理そのもの、即ち、全体と調和して一体となった善そのもの
であるということを、説いているのであろうと理解しています。
この「私」の存在に気づくことそのものが難しいもので、何が私なのかが、
一般的には理解できていないのかなと思います。
例えば、SNSの匿名性が問題なっていますが、なぜ匿名の方が良いのか?
そこにはきっと「私」の存在があります。
写真を出したくないのはなぜか?・・・それは〇〇な私を表に出したくないから。
本当はこんなことしてみたいんだけど、それをやると他の人はどう思うだろう?
と考えた瞬間に「私」がいます。目立ちすぎるのもどうかな、非難されるかも、
私の考えや価値観を否定されたくないなど、全てそこに「私」が存在していますよね。
それを失くした時、心の本体は天理と一体になり、それは自ずからに善であるという
ことを説かれているのだろうと思いますが、とても難しいですよね。
何せ私も、この「私」の存在を失くせたことがありません。
心の中にいる私を押し除けて、その他に明け渡せば、道理にかなう心しかないと
言われても、明け渡せたことがないのですからわからないのです。
ただ頭では分かっているというレベルであって、それでは全く駄目なので、
格物致知とか事上磨錬と言われるように、一つひとつを正しながら心で感じ、
薄皮を剥くように心を磨いて行くしかないのかなって思っています。
でも、それも悪くないですよね。苦行ではなく心が喜ぶ瞬間がありますから。😃