2017年10月12日

学ぶだけで考えず、考えるだけで学ばない

「学ぶだけで考えない」「考えるだけで学ばない」・・・伝習録下巻より引用

これはどちらも、学問の仕方が間違っていることを説いています。

しかしこれは、本当に身につまされますね。耳が痛いです!

まず、学ぶだけで考えないのは簡単ですね。

ただ単に、知識として知りましたというレベルです。

この場合、多くのケースが忘れちゃいますね。使うこともできません。

中には博識を誇る方もいらっしゃるかもしれませんが、多くの人は忘れるでしょう。

さらに、知ったことがわかる人がいます。これは知ったことわかる人とは、

学んだことを自分なりに深く考え、理解し、人に伝えることができることです。

私の場合、多くがまだこのレベルにいると思います。

実践していることもあるのですが、いやはや耳が痛い教えです。

そして、「考えるだけで学ばない」という教えが、私に突きつけられています。

例え話の方がわかりやすいので、昨日お聞きした職人さんの例で説明しますね。

昔から職人さんは「見て習え」という教え方が主ですよね。

今時そんな教え方は古いと言われる方もいらっしゃいますが、私はそうは思いません。

なぜなら、見て習えとは、まず型を真似ろというところから入って、

実際に道具を使って練習を沢山しながら、感覚的に本質をつかむまで、

深く仮説検証をすることだからです。即ち、実践を通して深く考えているわけです。

これで初めて、「考えて学ぶ」が完成するわけですよね。

要するに学んだ生き方は、全て実際の生活習慣に落とし込んで、深く仮説検証を

しながら考えに考え、その本質を理解せよということです。それが本当の学問です。

やってないことを本の上に学ぶだけでは、それが多少わかっているレベルに到達

していたとしても、まだ本物ではないよということですね。

それが証拠に、自分を律するとか、弱い己に克つということが全然ダメです。

また背筋が伸びました。まだまだやりますよ!!
posted by アイムサプライ at 15:37| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月21日

博く文を学ぶ

「博く文を学ぶ」・・・伝習録下巻より引用

「博く文を学ぶ」という言葉自体は、論語(雍也篇)に出てくる言葉だそうです。

推測でしかありませんが、伊藤博文の博文も、

ここから採用したのではないでしょうかね。

この論語にある「博く文を学ぶ」とは、生起した事柄に即して天理を発現するように

学ぶことだとされているそうです。

常に心即理や良知を軸に、生起した事柄を文の中に学ぶことが大切である

ということでしょうか。

だとすると、同じ論語(学而篇)にある「行ってなお力に余りがあれば文を学ぶ」

というのと抵触しませんか?・・・と弟子が王陽明に問うています。

王陽明は、詩経や書経などの六経の中には、長い歳月をかけた実践が

全てに含まれているのだから、博く文を学ぶということも、また行うということを

含んだものになっているのだよと説いています。

まさしくここが大切ですよね。先人の叡智は、学術的な論理ではなく、実践の痛みを

伴った叡智だと思うのです。理屈ではないのです。

そこをどこまで汲み取れるかは、私たち読むもの自身の理解力のレベルに左右される。

心即理や良知を理解した上で文を読むのと、真理を全く学ばないままで文を読むのでは、

最初から雲泥の差だと思うのです。

言葉というのは不思議なものです。同じ言葉なのに、どのタイミングで聞くか、

誰から聞くかによって全く違った印象を受けます。

自分自身の人間力が高まれば、シンプルな言葉の中に深さを感じるでしょうし、

誠実に努力する人の言葉を聞けば、心に素直に染み入るでしょう。

しかし、低い人間力では視野が狭すぎて、誰でも知っていることを偉そうにと

思うかもしれませんし、口だけの人の話を聞けば、腹で笑っているかもしれません。

それもこれも先人の智慧の中に、すでに答えは示されていますから、

素直な心で学び、少しでも実践・継続することが大切なのではないでしょうか。

posted by アイムサプライ at 11:34| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月22日

愚夫愚婦の立場に立つ

「愚夫愚婦の立場に立つことなしには、とても人に学は講じられない」・・・伝習録下巻より

昔は、師を敬うものと教えられましたが、果たして敬っていたでしょうか?

敬えと言われて、敬うことなどできるのでしょうか?

この教えは、私のような愚人に警鐘を鳴らす、大切な言葉だと思っています。

人はまず親しむもの。最初から上下をつけて教えた話など、

本当の学びとして残るものなどないということでしょう。

親しむうちに愛の深さに触れ、心の誠に触れると、

人は自然と敬うのではないでしょうか。

そして、同じ人間として段階は違えど、共に人としての成長を志し、

心の練磨を行う中で、講学を通じて、本物の学びが生まれるということだと思います。

間違っても、知識を身につけたものが偉そうに、上からものを言っていては、

学びを説くものとして失格な上、誰の参考にもならないということですかね。

経営者や上司が従業員と関わる際も、威厳を気にして迷う人がいらっしゃいますが、

どんなに親しんだとしても、誠の愛と生き様があれば、自然と敬われるはずです。

ここを勘違いしてはいけないという教えではないでしょうかね!
posted by アイムサプライ at 15:10| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月05日

今の人は、差し迫ったことがなくても・・・

「今の人は、差し迫ったことがなくても、食事のときですら、

いつも心をはたらかせて休むことがない」・・・伝習録下巻より引用

この話は今??と思ってしまいますが、いつものように伝習録下巻に

記されていることです。

ということは、何百年も人間は変わっていないということですかね。

今は「ITによって時間が速くなった」とか、「スピード化が進んで、

時間が短くなった」などと言われますが、そんなものがない当時でさえ、

人間は忙しくしていたということのようです。

これは一体どういうことでしょうか?

ある研究者によると、忙しく感じるのは、頭の中にもやもやしたものが

蓄積され、常に何かに意識を引っ張られて、混乱しているからなのだそうです。

要するに、やると決めたことはすぐやる!やめると決めたことはすぐやめる!

そもそも即断即決をして計画に落とすだけで、頭の中はクリアになり、

時間的な余裕を感じるのだそうですよ。

不安というものは危機感とは違います。もやもやしたものが、何となく気分を

曇らせていたり、根拠のない恐れやリスクを感じて、勝手に頭の中に、

ゴミを溜め込んでいるようなものなのだそうですよ。

だから時代背景が変わっても、即断即決できない人は常に忙しい気分なのです。

それを止めるだけで、時間的なゆとりは相当大きくなるそうですよ。
posted by アイムサプライ at 15:03| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月19日

一を悟って万事に通じる

「一を悟って万事に通じる」・・・伝習録下巻より引用

「学問にも、外からの教導が必要だが、しかし、みずからによって解悟したものは、

一を悟って万事に通じるものがあり、その点でまさるものがある。

第一、みずから解悟するものでなければ、教導を十分に受け入れることができない」

と説かれている中の一節を抜き出してみました。

「古人の言葉は、どれも自己の経験をふまえたものであり、だから、その説くところは

聞くものに切実に迫り、後世にいたっても、つぶさに人の情理にかなうものである。

それを、もし自分でも経験してみなかったら、古人があれこれ苦労したところは、

とてもわかりっこない」とも説かれています。

私的に感じることも、これと同じですね。結局やってきたことは深いところで話せますが、

学んだ知識については、表面的なところでしか話せないため、心が届きません。

だから学んだことでやったことがないことについては、少しでもやってみる、

先人の型にはまってみることが肝要だと考え、挑戦していますが、

知ることとできることには大きなギャップがあり、苦しいことが多く、

継続できないでいることも沢山あります。

それでも、まずは「やる!」ことから目を背けない。逃げないことが大事だと思います。

そして実際に継続して深く探求しない限り、万事に通じる深さへは

到達できないでしょうね。

スポーツのコツも、楽器を演奏するときのコツも、力を抜いた中でのポイントを

感じることができた瞬間に、目からウロコのことがあります。

おそらくは、経営も人生も、極めようと努力したものだけがわかる深いコツが

あるのではないでしょうかね。
posted by アイムサプライ at 13:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月25日

相手が自覚している是非を、すみずみまで確かにしてやる

「相手が自覚している是非を、すみずみまで確かにしてやる」・・・伝習録下巻より引用

これは、人に教えを説く時、人を導く時に在り方について、

王陽明が説いている文脈です。

予見された知識、即ち、自らの学識や経験値などをひけらかすのではなく、

ただ心を空にして相手の話をよく聞くこと。

そして、相手が持ち得る是非、自覚している是非に照らし合わせることが

できるように導き、自らの力で解決したという自負と自信を、

与えることが肝心であるということだと思います。

これができるには、導く側に余程の人間力や引き出しが必要ですから、

簡単ではありませんが、それがプロフェッショナルということなのでしょうね。

自分の非力を痛感させられますが、目標は高くありたいですからね!
posted by アイムサプライ at 21:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月20日

楽とは心の本体だ

「楽とは心の本体だ」・・・伝習録下巻より引用

陽明先生の弟子が、「母の喪にあって、哀哭をきわめている時にも、

その楽はやはりあり得るのでしょうか?」という質問に対して、

先生は、「心ゆくまで泣いてこそ、楽(やすらぎ)もある。

泣かなければ楽はない。泣くことは、それがむしろ心にとって自然であるから、

心にざわめきがない。それがやすらぎなのだ。

心の本体は決して動揺することがない」と説かれています。

心が自然の摂理に則り、すなわち心即理である限り、哀しむべき時には哀しみ、

怒るべき時には怒ることは、むしろ楽(やすらぎ)であり、それが心の本来の姿である

ということを説かれているように思います。

この道理を外れて、懼れる、妬む、恨む、嫉妬するということなどは、

心の本来の姿を離れて、利己的な欲がみせる感情的な妄想に振り回されているから、

楽しくなく、やすらぎも無いということですね。

でもそれって、誰かに見せられているのではなく、己の心が映し出している

ことを見ているという事実を、我々は知らなくてはならないということでしょう。

だから、そういう良知から外れた意念が浮かんだ時は、己の心を省みるべきだと

教えて下さっているのではないでしょうか
posted by アイムサプライ at 10:08| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月23日

困知勉行の功夫につとめる

聖人は、もとより「生知安行」の人であるが、みずから自分を正しいとはせず、

むしろ求めて「困知勉行」の功夫につとめる・・・伝習録下巻より抜粋引用

この言葉も、さすがに鋭い言葉だなと感嘆いたしますね。

みずからを正しいとするとは、完成しているということであり、

自分のことを完成していると思っている人など、大いなる勘違い以外に、

喩えようがないのではないでしょうか。

一流の人になればなるほど、まだまだ上を目指すという自己実現欲求を持っている

と言われていますが、人間を修養するということにおいても、

上を目指して努力することにかわりはないのだろうと思います。

結局日々努力して、真剣に生きていない人には見えない世界なんでしょうかね。

また、その努力するプロセス以外に、技も人間も磨く手段はないと思います。

謙虚な気持ちを一時たりとも忘れたら、それこそが間違いなのではないでしょうか。
posted by アイムサプライ at 11:15| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月15日

七情に執着する、これを欲という。

「七情に執着する、これを欲という」・・・伝習録下巻より引用

七情とは、喜度哀懼愛憎欲のことを言われています。

人間というか、動物に生まれた以上、王陽明先生は、これらの七情を無くす

ことはできないと言われています。

いや、むしろ生きるために必要なものであり、だからこそ最初から備わって

いるのだと説かれているように思います。

しかし問題なのは、この七情への執着であり、その執着こそが、

良知を覆い隠してしまうような厚い雲となる「欲」なのであると説かれています。

喜ぶことは生きる糧ですが、執着すれば人の喜びを奪うこともあります。

怒ることも時と場合で必要ですが、いつまでも怒れば体や心を害します。

哀しんでばかりいたのでは前に進めないし、懼れてばかりいてはチャンスを逃します。

愛も与え過ぎれば相手を駄目にすることもあるし、憎しみからは何も生まれません。

欲はまさしく人間に幻や妄想を見させる元凶ですよね。

しかし七情は必要なのです。脳科学の観点からも、効率的な反応に欠かせないそうです。

執着しないためには、まずは良知とは何かを知ることが肝要だと思われますね。

その上で、日々是精進、事上磨錬。これしかないようですね!
posted by アイムサプライ at 17:41| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月11日

天を怨まず、人を尤めない

「天を怨まず、人を尤(とが)めない」・・・論語憲問篇(伝習録下巻より)

「万物一体の仁」と言われるが、仁の本来性が全うされれば、

天下はすべて各人自身の仁に一つに帰すことになる。

これを「天下がみな仁に与(くみ)する」(朱熹)と言っているのである。

これらは全て王陽明の教えであるが、この仁とは何かを言葉で表現することは、

実に難しいと感じます。

私心をなくした本来の性は、そもそも仁と一体であり、是非もない万物一体の

流転に従うわけであるが、縁あって形をなすものは、

全体を生かそうとする仁と一体であるときのみに、存在として残る事実を

逆説的に見ている表現かなと思っているところです。

即ち、全体を生かそうとする、全体として優位な貢献をなす働きが

備わっているもののみ生き残るわけで、それは即ち仁愛であろう

ということではないでしょうか。

だから、必然的に「天を怨まず、人を尤めない」ことは道理であり、

そう思うのは、己の中に怨みがあるからであり、まずは己自身を怨む心を

無くすことが大事であると説かれているのだろうと思うのです。

己の中に怨みがあるのは、己の良知を裏切っているからであり、

自分の中に仁が生まれれば、そもそも一体である天下は、仁を歓迎し、

仁で応えるものであるから、己を格す工夫をしなさいということでしょう。

確かに、自分を愛せないのは、自分の良心を裏切っている場合が多く、

私欲に負けているケースが多いですもんね。

そして、それを人のせいにするので、ますます全体から嫌われる。

この悪循環にはまっている人は、本当に気の毒だなと感じます。
posted by アイムサプライ at 17:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする