2020年06月05日

至善とは、この心があくまでも純全に天理そのものであること。

至善とは、この心があくまでも純全に天理そのものであること。・・・伝習録上巻より引用

「至善に止する」とは大学にある言葉であるが、この至善について弟子が訪ね、

単なる一つひとつの儀礼を正しくすることではなく、私の心がなく、

そのまま純全にして天の道理そのもの、即ち、全体と調和して一体となった善そのもの

であるということを、説いているのであろうと理解しています。

この「私」の存在に気づくことそのものが難しいもので、何が私なのかが、

一般的には理解できていないのかなと思います。

例えば、SNSの匿名性が問題なっていますが、なぜ匿名の方が良いのか?

そこにはきっと「私」の存在があります。

写真を出したくないのはなぜか?・・・それは〇〇な私を表に出したくないから。

本当はこんなことしてみたいんだけど、それをやると他の人はどう思うだろう?

と考えた瞬間に「私」がいます。目立ちすぎるのもどうかな、非難されるかも、

私の考えや価値観を否定されたくないなど、全てそこに「私」が存在していますよね。

それを失くした時、心の本体は天理と一体になり、それは自ずからに善であるという

ことを説かれているのだろうと思いますが、とても難しいですよね。

何せ私も、この「私」の存在を失くせたことがありません。

心の中にいる私を押し除けて、その他に明け渡せば、道理にかなう心しかないと

言われても、明け渡せたことがないのですからわからないのです。

ただ頭では分かっているというレベルであって、それでは全く駄目なので、

格物致知とか事上磨錬と言われるように、一つひとつを正しながら心で感じ、

薄皮を剥くように心を磨いて行くしかないのかなって思っています。

でも、それも悪くないですよね。苦行ではなく心が喜ぶ瞬間がありますから。😃


posted by アイムサプライ at 17:50| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月11日

「民に親しむ」といえば教(化)とともに養(民)を兼ねる

「民に親しむ」といえば教(化)とともに養(民)を兼ねる・・・伝習録上巻より引用

これは王陽明の弟子が、朱子の「民を新たにする」を採用せず、

古本大学の「民に親しむ」を善とする理由について問うた一文です。

朱子は「日新の功夫」に重きを置き、人を教化しようとしているのですが、

陽明は、「民に親しめばこそ、民を新たにすることもできる」と説いているようです。

これは、今の日本の状況に照らし合わせて考えると、実に感慨深いものがあります。

「民に親しむ」とは、単に教育を施すのみならず、養うことが肝心であるということです。

まるで親が子を思うように、民の暮らしを養いつつ、教えを施して初めて、

民は自分自身を新たにしようと励むのであり、進化発展につながるのだということです。

民を教化するだけでは、足りないということを言っているわけですね!

今日本のみならず世界は、新型コロナウィルスの強風が吹き荒れています。

この時、政を行うものは、まず「民を養う」を持ってして、はじめて民を教える(導ける)

ということを肝に銘じるべきではないかなと私は考えます。

科学者など専門家はデータやエビデンスに重きを置きます。これは当然のことです。

しかし政治判断とは、一人ひとりの気持ちに寄り添ったものでなくてはいけないと思うのです。

言い難い話ですが、遠くの見知らぬ命100と、私の愛する我が子の命1は、同じではありません。

今国民は不安なのです。だからこそまずは、国民に寄り添って安心を提供することで、

この先の経済復興を含めあらゆる事柄への協力に対して、国民を導けると考えています。

自己責任ではない50%ダウンの個人・事業者に寄り添うためには、

まずはこの国難に対して安心・安全・命を守る観点から、Stay homeを呼びかけると同時に、

政治家・官僚・公務員も同じ痛みを分かち合う覚悟を持っていることを表明して費用を捻出し、

足りない部分は、結局は有るところからしかお金はまわせないので、

復活に向けたシェアリング(税の徴収)を行なっていくように腹を据えたらどうでしょうかね。

そうしないと自分たちだけを守っていて国民を見捨てているように感じてしまい、

正しい方向性に導くことができなくなってしまうのではないかなと思います。

みんな怖いのです。でも、生きていてこそ頑張れるのです。個人も法人も死んだら終わりです。

今こそこの「民に親しむ」の本意を理解し、リーダーは覚悟を決めるべきだと考えています。

そうすれば行き過ぎた金融資本主義を見直す機会にもなる気がしますし、

格差の是正にもなるのではないでしょうか。

お金を刷って金融緩和をすればごまかせるかもというような姑息な手段を見直して、

こんな時くらいは、固定費である家賃についても、苦しみのシェアをお願いできるだけの

リーダーであって欲しいものです。(あくまで私の意見ですが)また春は必ずきます。

その時に国民は、全員で力を合わせて畑を耕し、種を巻いて、また育てるのですから。😃
posted by アイムサプライ at 11:12| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月03日

道(人道・良知の)は本来窮め尽くせないものだ!

道(人道・良知の)は本来窮め尽くせないものだ!・・・伝習録下巻より引用

道楽という言葉がありますが、一般的に使われる道楽は、道楽息子とか、

道楽が過ぎるというように、あまり良い意味ではないですよね。

しかし、これを道を楽しむといえば、いきなり良い意味になるのが不思議です。

私はよく、良い意味での道楽という言葉を使うのですが、

仕事でも遊びでも趣味でも、ただ与えられたもので満足しているうちは喜びでしかない。

これを自ら深め、その道がわかるようになってくると、楽しみの境地に入る。

このように理解して使わせていただいております。

例えば、酒を呑むのではなく酒を楽しむ。音楽を楽しむ。山を楽しむ。茶を楽しむ。

深い味わいがわかりかけてくると、シンプルな中になんともいえない味わいがあり、

まさにそれを追求していくことが、私が好む道楽です。

教育でもなんでも、プロの道は大体道楽でなければやってられない。

あのイチロー選手でさえ、苦難や苦痛に耐えながら道楽をされていたと思います。

それでも永遠にたどり着けないのが「道」ですよね。まだ上があるはずだと思うから

無限欲求であり、いつまでもワクワクしていられるのだと思います。

だからたどり着かなくたって良いと思うんですよね。そのプロセスを振り返った時、

まさにそこに道ができていて、その彩は眩いばかりではないでしょうか😃
posted by アイムサプライ at 18:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月19日

良知は、つまり易の道である。

良知は、つまり易の道である。・・・伝習録下巻より引用

易の道は、変化の道ですね。仏教で言えば、諸行無常であります。

止まることなく変化していくことが世の常であり、同じものや同じこと、

同じ場所などに固定することはできないということです。

瞬間的には、動かざること山の如しと言われるように、動かぬことが変化に

対応する最適な条件もありますが、基本的に全体が止まることはないわけです。

即ち、良知という縁の中心、中庸を考えてみても、北から見る者もおれば、

南から見る者もおるし、近くから見る者もおれば、遠くから見る者、

上から見る者、下から見る者、斜めから見る者と、同じ答えなど無いに等しい

ということを説いているわけですね。

これを理解しているようで、私たちは理解していないのではないでしょうか?

例えば、成果や成功を語る時、まだまだ社会的には、地位や金銭的優位をもって

成功としている事例が圧倒的に多いように思います。

あるいは、偉大なる功労者、社会へ貢献した人を称えて素晴らしい人と

しているケースも多いと思います。

しかし、それを支えた人にはあまり光が当たりませんよね!

人材育成においても、みんな立派な人を育てようとしています。私もその一人です。

しかし本当は、ここにいる天の時、地の利、人の和が異なる故に、

良知そのものは至善であって一点かもしれませんが、そこに向かおうとする手段は、

多様であって良いわけですよね。

では何を知らなければいけないか?・・・それは、その人固有の、しかも止まることのない

天地人であり、時と立ち位置と役割だと思います。

それに合わせて良知に向かう方向性を正しく導くことは、容易なことではありませんが、

それが伝習録に言われる「易の道」ではないかなと考えています!😃
posted by アイムサプライ at 10:06| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月16日

人と生まれて何よりの病弊は、「傲」の一字に尽きる

人と生まれて何よりの病弊は、「傲」の一字に尽きる・・・伝習録下巻より引用

自分が傲慢であると思って生きている人は、きっといないように思います。

なので、当たり前となっていること、物事に慣れていくことなどの心の隙に、

入り込んでくるのが「傲」なのではないでしょうか?

自分は謙虚さや素直さを失ってはいないと思っていても、

慣れてくることは同時に、謙を失うことにつながると思いますし、

成功体験や信念が生まれてくるほどに、それ以外に対しては素直でいられなくなる。

喜んでもらおうと思って始めた花見も、いつしか当たり前になれば不遜になる。

我が子や家族など、親しくなればなるほど甘えが出て、自我が大きな顔をし始める。

職場でも仕事でも、当たり前になれば習慣に固執して、改善や改革が図れない。

一体どうすれば、この「傲」を遠ざけることができるのでしょうかね。

日に新たなり。日々に新たなり。また日に新たなり。

このような日新の功夫を怠らないように努めるしか、ないような気がしますね😃
posted by アイムサプライ at 13:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月26日

心の本体には、一念たりとも滞りをとどめておけない。

「心の本体には、一念たりとも(我執の)滞りをとどめておけない」・・・伝習録下巻より引用

もう少し続きがあります。

「ちょうどそれは、眼にはどんなちっぽけな塵埃もとどめておけないのと同じだ」

「その一念は、・・・善念であっても同じである」

どうですか?いや〜、深いですね!

確かに私も、これが正しいとか、善だとか、一度決めてしまって執着していることが

沢山あるように思います。

何故ダメなのか?・・・諸行無常の変化に対して、柔軟に心の持つ本来の力を

使えていないということだからではないかなと考えています。

清濁併せ吞むと言われますが、時として、理不尽を飲み込むことで全体が調和し、

少し時間を置いた結果、雨降って地固まるではありませんが、

より良い方向に進んだという経験は、多くの人がお持ちではないでしょうか?

たとえダイヤであろうが金塊であろうが、眼にはとどめておくことができませんよね。

それ程に私たちの善悪・好悪・執着・懼れというものは、捨て難いということでしょう。

気遣いやおもてなしは、心を虚にして相手を受け入れることが

大切なのかもしれませんね。😃
posted by アイムサプライ at 15:47| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月23日

習ずめばあい遠し

「習(なず)めばあい遠し」・・・伝習録下巻より引用

孔子は、『性は、あい近し』ということを論語(陽化篇)の中で説いているのは、

孟子が説くところの『性は善なり』と同義であると、王陽明は説いています。

即ち、生まれ持って与えられし徳の中心は「善」であるということかなと思います。

気質には、剛も柔もあるわけですが、剛が良くて柔が悪いわけではありませんし、

その反対も、また然りだと思います。

ただ、善を持って習慣を織りなせば剛善や柔善となり、

悪を持って習慣を織りなせば剛悪や柔悪となるだけのことであるということです。

従って、どのような習慣を織り成すかによって、「習めばあい遠し」となると。

これは如何にもそうで、いくら学識を得て、何が正しい道かを学んでも、

実践していなければ、いざという時に何の役にも立たないわけです。

例えて言えば、非常事態の対応策をペーパーに纏めたとろこで、

避難訓練をしていなければ、役に立たないようなものです。

頭でわかっているだけでは、本当に駄目だなということが、私も身に沁みます!

これを改むるに、意を誠にして心や姿勢をコツコツ正すしかないわけで、

今日も明日も、これ精進ですね!😃
posted by アイムサプライ at 10:44| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月20日

私意がきざすとき

「私意がきざしたとき、そうと自覚するもの、それこそが君の命根だ」・・・伝習録下巻より引用

心は虚でるが、そこから受け取るものを自覚できたなら、

それこそが君が持っている性質であり、そこに役割があるということですかね。

ここでいう「きざす」は、自分の内側から出る我欲ではなく、

外界からもたらされる兆しをどう感じるかという自覚ですかね。

「世界に一つだけの花」というスマップの曲がありますが、

まさにその通りでありまして、一つひとつの種は異なっていて、

その種が春の兆しを感じ、水の縁を得て、芽を出していく。

その姿は人間もまた類似形を示すという教えなんだろうと思っています。

ただ、耕したり草を抜いたり、肥料を与えたりと、個人の弛まぬ努力とセットでなければ、

花は大きく咲かないですよね。一所懸命になれば良いという歌の歌詞通りです!😃
posted by アイムサプライ at 11:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月06日

その見えないところを見、聞こえないところを聞く

「その見えないところを見、聞こえないところを聞く」・・・伝習録下巻より引用

「学ぶものは、その見えないところを見、聞こえないところを聞いてこそ、

はじめてその功夫は、着実なものとなる」という一節があります。

これは完全に形而上学ですね。宇宙の道理、道なり理なりです。

以前は、さっぱりわかりませんでしたが、今はぼんやりとわかるような気がしてきました。

あくまで気がしてきただけかもしれませんけどね。^^;

一方で、実は私たちは、学ばずとも、この道や理について感じ取っています。

無意識のうちに感応していると言っても良いかなと思っています。

色々な人が色々な気を出していらっしゃいますし、顔などと言うものは、

まさにわかりやすいではありませんか。

今の世の中を「カオス(混沌)」とか「きな臭い」と表現されている方もよく出逢います。

私もそう感じますし、その心の及ぶところ、気の発するところの充満は道を流れ、

全体としての気をつくっていますよね。

安岡正篤先生は、シンギュラリティに触れられていて、何かの小さな引き金を引いただけで、

この気が充満するところ大爆発を起こすようなもので、先の第一次大戦のように、

一気にことが起こってしまうものだと警鐘を鳴らされています。

これは、先哲の多くも説かれていることで、本当に学んで我が身を化する、進化発展する

ためには、この心の感応から発するところの源、即ち心をそのものを、

ピカピカの鏡面のごとく正しなさいと言われているのだと思います。

それは、無意識に感じている気を正すことによって、本当に学ぶことにつながる

という意味でもあると解釈しています。

真に平和を求めるなら、常にこの道理・道徳を学んで、己を慎む生き方をしなければ

いけないということですが、世の中の平和が極まると大体低きに流れ、

個人主義の蔓延や利己的な利益の追求、またそれに憧れる者が溢れますよね。

そこにあるものは、道を通じて充満し、臭いガスのように溜まるものなのでは

ないでしょうかね。それが爆発すれば大きな悲しみとなる。

破壊と創造が進化の過程だとしても、今や人類は、人類そのものを破壊し尽くせるほどの

力を持ってしまいましたね。その割には、人間としての成長はどうなのでしょうか?💦
posted by アイムサプライ at 12:17| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月13日

実地に功夫をすすめる

「実地に功夫をすすめる」・・・伝習録下巻より引用

王陽明曰く、「わたしは諸君と致知・格物を講じあって、

毎日毎日がこのとおりである。いや、10年20年講じても、

やはりこのようなことだろう」・・・

やはり石の上にも3年ではなく、石の上には30年のようですね!

また、「諸君が私の言葉を聴き、実地に功夫をすすめたら、

一回の講学ごとに得るものもあろうが、もし功夫を加えなかったら、

要するにこれは一場のお話にすぎず、何の用もなさない」・・・

厳しいお言葉ですね。あの王陽明ですらそうなのですから、

私ごときは生涯取り組んだところで、大した考えもできないかもしれません。

しかし私の仕事は、人材育成なのですから、たとえ僅かな気づきであっても、

それを共に学び成長しようとする同志と共にすれば、得るものがないとは

言えないのではないかと思っています。

たとえ僅かでも、今日より明日が成長していられることに期待し、

喜びを感じる心を、できることなら生涯、大切にしていきたいですね😃
posted by アイムサプライ at 13:53| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。