2017年07月19日

一を悟って万事に通じる

「一を悟って万事に通じる」・・・伝習録下巻より引用

「学問にも、外からの教導が必要だが、しかし、みずからによって解悟したものは、

一を悟って万事に通じるものがあり、その点でまさるものがある。

第一、みずから解悟するものでなければ、教導を十分に受け入れることができない」

と説かれている中の一節を抜き出してみました。

「古人の言葉は、どれも自己の経験をふまえたものであり、だから、その説くところは

聞くものに切実に迫り、後世にいたっても、つぶさに人の情理にかなうものである。

それを、もし自分でも経験してみなかったら、古人があれこれ苦労したところは、

とてもわかりっこない」とも説かれています。

私的に感じることも、これと同じですね。結局やってきたことは深いところで話せますが、

学んだ知識については、表面的なところでしか話せないため、心が届きません。

だから学んだことでやったことがないことについては、少しでもやってみる、

先人の型にはまってみることが肝要だと考え、挑戦していますが、

知ることとできることには大きなギャップがあり、苦しいことが多く、

継続できないでいることも沢山あります。

それでも、まずは「やる!」ことから目を背けない。逃げないことが大事だと思います。

そして実際に継続して深く探求しない限り、万事に通じる深さへは

到達できないでしょうね。

スポーツのコツも、楽器を演奏するときのコツも、力を抜いた中でのポイントを

感じることができた瞬間に、目からウロコのことがあります。

おそらくは、経営も人生も、極めようと努力したものだけがわかる深いコツが

あるのではないでしょうかね。
posted by アイムサプライ at 13:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月25日

相手が自覚している是非を、すみずみまで確かにしてやる

「相手が自覚している是非を、すみずみまで確かにしてやる」・・・伝習録下巻より引用

これは、人に教えを説く時、人を導く時に在り方について、

王陽明が説いている文脈です。

予見された知識、即ち、自らの学識や経験値などをひけらかすのではなく、

ただ心を空にして相手の話をよく聞くこと。

そして、相手が持ち得る是非、自覚している是非に照らし合わせることが

できるように導き、自らの力で解決したという自負と自信を、

与えることが肝心であるということだと思います。

これができるには、導く側に余程の人間力や引き出しが必要ですから、

簡単ではありませんが、それがプロフェッショナルということなのでしょうね。

自分の非力を痛感させられますが、目標は高くありたいですからね!
posted by アイムサプライ at 21:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月20日

楽とは心の本体だ

「楽とは心の本体だ」・・・伝習録下巻より引用

陽明先生の弟子が、「母の喪にあって、哀哭をきわめている時にも、

その楽はやはりあり得るのでしょうか?」という質問に対して、

先生は、「心ゆくまで泣いてこそ、楽(やすらぎ)もある。

泣かなければ楽はない。泣くことは、それがむしろ心にとって自然であるから、

心にざわめきがない。それがやすらぎなのだ。

心の本体は決して動揺することがない」と説かれています。

心が自然の摂理に則り、すなわち心即理である限り、哀しむべき時には哀しみ、

怒るべき時には怒ることは、むしろ楽(やすらぎ)であり、それが心の本来の姿である

ということを説かれているように思います。

この道理を外れて、懼れる、妬む、恨む、嫉妬するということなどは、

心の本来の姿を離れて、利己的な欲がみせる感情的な妄想に振り回されているから、

楽しくなく、やすらぎも無いということですね。

でもそれって、誰かに見せられているのではなく、己の心が映し出している

ことを見ているという事実を、我々は知らなくてはならないということでしょう。

だから、そういう良知から外れた意念が浮かんだ時は、己の心を省みるべきだと

教えて下さっているのではないでしょうか
posted by アイムサプライ at 10:08| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月23日

困知勉行の功夫につとめる

聖人は、もとより「生知安行」の人であるが、みずから自分を正しいとはせず、

むしろ求めて「困知勉行」の功夫につとめる・・・伝習録下巻より抜粋引用

この言葉も、さすがに鋭い言葉だなと感嘆いたしますね。

みずからを正しいとするとは、完成しているということであり、

自分のことを完成していると思っている人など、大いなる勘違い以外に、

喩えようがないのではないでしょうか。

一流の人になればなるほど、まだまだ上を目指すという自己実現欲求を持っている

と言われていますが、人間を修養するということにおいても、

上を目指して努力することにかわりはないのだろうと思います。

結局日々努力して、真剣に生きていない人には見えない世界なんでしょうかね。

また、その努力するプロセス以外に、技も人間も磨く手段はないと思います。

謙虚な気持ちを一時たりとも忘れたら、それこそが間違いなのではないでしょうか。
posted by アイムサプライ at 11:15| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月15日

七情に執着する、これを欲という。

「七情に執着する、これを欲という」・・・伝習録下巻より引用

七情とは、喜度哀懼愛憎欲のことを言われています。

人間というか、動物に生まれた以上、王陽明先生は、これらの七情を無くす

ことはできないと言われています。

いや、むしろ生きるために必要なものであり、だからこそ最初から備わって

いるのだと説かれているように思います。

しかし問題なのは、この七情への執着であり、その執着こそが、

良知を覆い隠してしまうような厚い雲となる「欲」なのであると説かれています。

喜ぶことは生きる糧ですが、執着すれば人の喜びを奪うこともあります。

怒ることも時と場合で必要ですが、いつまでも怒れば体や心を害します。

哀しんでばかりいたのでは前に進めないし、懼れてばかりいてはチャンスを逃します。

愛も与え過ぎれば相手を駄目にすることもあるし、憎しみからは何も生まれません。

欲はまさしく人間に幻や妄想を見させる元凶ですよね。

しかし七情は必要なのです。脳科学の観点からも、効率的な反応に欠かせないそうです。

執着しないためには、まずは良知とは何かを知ることが肝要だと思われますね。

その上で、日々是精進、事上磨錬。これしかないようですね!
posted by アイムサプライ at 17:41| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月11日

天を怨まず、人を尤めない

「天を怨まず、人を尤(とが)めない」・・・論語憲問篇(伝習録下巻より)

「万物一体の仁」と言われるが、仁の本来性が全うされれば、

天下はすべて各人自身の仁に一つに帰すことになる。

これを「天下がみな仁に与(くみ)する」(朱熹)と言っているのである。

これらは全て王陽明の教えであるが、この仁とは何かを言葉で表現することは、

実に難しいと感じます。

私心をなくした本来の性は、そもそも仁と一体であり、是非もない万物一体の

流転に従うわけであるが、縁あって形をなすものは、

全体を生かそうとする仁と一体であるときのみに、存在として残る事実を

逆説的に見ている表現かなと思っているところです。

即ち、全体を生かそうとする、全体として優位な貢献をなす働きが

備わっているもののみ生き残るわけで、それは即ち仁愛であろう

ということではないでしょうか。

だから、必然的に「天を怨まず、人を尤めない」ことは道理であり、

そう思うのは、己の中に怨みがあるからであり、まずは己自身を怨む心を

無くすことが大事であると説かれているのだろうと思うのです。

己の中に怨みがあるのは、己の良知を裏切っているからであり、

自分の中に仁が生まれれば、そもそも一体である天下は、仁を歓迎し、

仁で応えるものであるから、己を格す工夫をしなさいということでしょう。

確かに、自分を愛せないのは、自分の良心を裏切っている場合が多く、

私欲に負けているケースが多いですもんね。

そして、それを人のせいにするので、ますます全体から嫌われる。

この悪循環にはまっている人は、本当に気の毒だなと感じます。
posted by アイムサプライ at 17:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月28日

天地万物と感応して判断された是非が体(じったい)である

「天地万物と感応して判断された是非が体(じったい)である」・・・伝習録下巻より引用

ここは少し長くなりますが、伝習録下巻の本分を、そのまま引用させて頂きます。

「目そのものには体がなく、万物万象の色が体である。耳そのものには体がなく、

万物万象の声音が体である。鼻そのものに体はなく、万物万象のにおいが体である。

日そのものに体はなく、万物の味が体である。心そのものに体はなく、

天地万物と感応して判断された是非が体である」

私たちは全て、ここに喜び、怒り、泣き、怯え、苦しみ、悩むわけですが、

この事実については、あまりにも知らなすぎると思われてなりません。

実態がなく空であり、心が決めるのだから、心の有り様が全てである。

だから、自分の都合の良いように思えば良いというのは、単なる楽観主義です。

陽転思考やポジティブシンキングと誤解されがちですが、

本質は、あるがままに受け入れよということを教えて下さっていると思います。

そして、その上で良知に従い、あるべき姿へ向かって陽に転じる。

即ち、いかなる困難や苦難があろうとも、現実から目をそらし、

都合の良い妄想をするのではなく、自らの意志で立ち、道を拓こうとする者こそ、

本当の自由を手にする者だということだと考えます。

だから、謙虚にならざるを得ないし、生涯これ、修行なのだと思うのです。

それを楽しまなければやってられませんから、やらされ感ではなく、

自らの意志で道を切り拓く、困難を乗り越えていく。

これが黒田選手のような方だと思います。自らの意志=自由なのですよ。

間違うことなかれ、幕妄想。心を磨くことに終わりはないな、きっと。
posted by アイムサプライ at 12:30| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月25日

民に仁にし物を愛する

「民に仁にし物を愛する」・・・(孟子)伝習録下巻より引用

仁愛は東洋西洋を問わず、最も大切な根本であると説かれていますが、

さりとて仁愛も、実際には簡単に語れませんよね。

もし目の前に飢える我が子と人の子がいた時、

どちらか一方しか助かる道がないとしたならば、

我が子を救おうとする仁を咎めてはいけないと言われています。

その優先順位である自然の条理を、みだりに乱してはならない

ということが「義」であり、条理に従うことが「礼」であり、

条理を知ることを「智」といい、条理に終始することを「信」というそうです。

これは非常に厳しい、自然の摂理ですね!

情に流される人間にとっては、その都度心が乱れて苦しみます。

しかし、それらは全て「意の動」であり、我が心が生み出した妄想に過ぎません。

その妄想に振り回されることなく、自然の条理に従うべきことを説かれています。

ある日我が家に迷い込んだ雀の雛がいました。

早く気付けばよかったのですが、かなり時間が経って弱った状態で発見したので、

水を飲ませ、回復することを祈るしかできませんでした。

すると親鳥と思われる二匹の雀がやってきたので、そっと地面に下ろして遠く離れ、

様子を見ていました。

親鳥と思われる二匹の雀は交代で餌を運び、一所懸命飛び上がるように促しています。

何時間も、何時間も、そして翌朝も、何とか助けようと必死に頑張っていました。

それでもこの子の命は最早持たないと察知した時、

あっさりと見捨てて飛び去ったのです。

自然の条理とは厳しいものだなと思いました。しかし、是非に及ばずですよね。

命ある限り命を燃やし、くよくよしないで一所懸命生きる。

そして、この体と別れ自然に帰すべき時が来たら、それはそれと受け入れる。

厳しい中にも仁愛があり、優先順位の義があり、礼を持って従う。

心乱されず良知の判断を得るには、このことが大切なのかもしれませんね。

posted by アイムサプライ at 15:48| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月13日

人の良知は、すなわち草木瓦石の良知に他ならない

「人の良知は、すなわち草木瓦石の良知に他ならない」・・・伝習録下巻より引用

この言葉が、良知を説明する上で最も頼りになるというか、

考えやすいのではないかなと思います。

伝習録の中では、次のような説明が加えられています。

天地万物は、人と本来一体のものであり、これを感覚するその最も精微なところが、

つまり人の心の霊明なのだ。

風雨露雷、日月星辰、禽獣草木、山川土石のすべてが、人と本来一体なのである。

だから、五穀禽獣の類は、みな人の生を養うことができ、

薬石の類は、病気を癒すことができるのである。

皆さまは、この言葉をどのように解釈なさいますか?

そして、良知とは一体何だと思われますか?

雨は大地を潤し、恵みを与えると同時に、形あるものを破壊する場合もあれば、

人の命を奪う場合もありますよね。

熱を奪い熱くなれば、自らを水蒸気と変え、天に登ります。

天に登り冷やされれば、雲になり雨となって、移動しながらまた大地に降り注ぐ。

石には石の、草木には草木の気質があり、役割があるのです。

そして全体で見れば、お互いが補い合って生かし、生かされる関係にありますよね。

そこに存在する良知とは一体何か?これを理解することが大事なのだと考えます。

そして、それ以外の妄想に振り回されないように心を磨いていくことこそ、

結果として、私達の生きる意味かもしれませんね。
posted by アイムサプライ at 10:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月14日

性は、善もなく悪もない。 性は、善もなく悪もない

「性は、善もなく悪もない」・・・伝習録下巻より引用

朱子学では「性即理」といい、陽明学では「心即理」と申しますが、

性(根本)には善も悪もなく、ただ太虚として満たされている理が存在するのみ

であるという解釈を私はしています。

ここは深いですよね。難しいです。正直、未だに確信するに至りませんが、

おそらくは、この宇宙に満ち満ちている全ての物質や気の中で、

それぞれの性は善もなく悪もなく、全体の中の一部、すなわち一体として

存在しているという意味であろうと理解しているところです。

不思議だなといつも思うのですが、旬のものを食べていると、

その時節に必要なエネルギーの補充がなされて健康な生活ができますよね。

病気になっても、自然界に存在する物質を適切に補うと、

治癒する方向へ進んでいきます。

まるで何かが過ぎればバランスを崩しますが、そのバランスを補うものも、

この自然界に存在しているわけで、全ては一体であると言われる所以だと考えます。

そうであるとすれば、善だの悪だのというのは何のことなのでしょうか?

これを陽明学では、善が有り悪が有るのは、意の動であると説いています。

すなわち人間の情動が動いて、善だの悪だのという妄想を抱くのだということです。

仏教では、このことを妄想といい、妄想は持つなということで「莫妄想」

(妄想することなかれ)と説いています。

しかし普通に考えれば、善悪がなければ道徳も倫理もないわけで、

何かおかしいなと思われる方も多いのではないでしょうか。

そのことを陽明学では「致良知」として説いているわけです。

先ほどの旬の食べ物のように、善だの悪だのと情動を動かさずとも、

そもそも全ては一体であり、全てのものに良知としての気質があるから

バランスが取れている。理にかなっているという意味なのではないでしょうか。

心を覆っている七情といわれるような煩悩がなければ、自ずから良知が発揮され、

他を生かし、また生かされる存在であるし、全体であり、その一部であるのです。

せめてこの妄想に振り回されない生き方を目指して努力したいですね。

それを事上蘑練といい、また格物致知と言われるようです。
posted by アイムサプライ at 17:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする